美と個性

 桜はすっかり葉っぱになりました。今はツツジが盛大に咲いて私の目を覚まさせてくれます。我が家のパキポディウム恵比寿大黒は多分今年最後の花を咲かせました。水やりをした次の日に咲かせるなんて…植物はとても正直です。


 最近個性とはなんぞや、美とはなんぞやと考えたり読んだりしています。前のブログで書いたように、画家は自分の筆跡、筆致を大切にします。ただそれが万人にとって心地よいものとはなりません。筆跡やタッチのような「個別の個性」に対する評価が、人によって真っ二つに分かれるのは非常に興味深い現象です。これは、美に「平均」や「正解」にあるのではなく、見る人と描く人の身体的な共鳴にあるからかもしれません。



 例えば、​ある人にとっての「力強い筆致」が、別の人には「乱暴で不快」に映る。この相違・ギャップは芸術が単なる視覚情報ではなく、深い所での共感であると考えます。


​個性=評価になるのは鑑賞者の背景と共感 があるからだと思います。鑑賞者は自分の経験や感情に近い筆跡に強く惹かれる気がします。例えば、心が波立っている時には激しい筆跡に救いを感じ、静寂を求めている時には滑らかな筆跡を「美しい」と感じます。


 ​しかし、その範囲から逸脱したものに惹かれないか?と言うと一概にはいとはなりません。「絵はこうあるべきだ」という規範を重視する人は、個性が強すぎる筆跡を「技術不足」や「独りよがり」と否定的に捉えることがあります。一方で、新しさを求める人は、その逸脱にこそ「真実」を見出します。鑑賞者のキャパシティが関係しています。


 ある調査で美人を集めてその平均をとるとなんとも凡庸な顔が出来上がるという結果がありました。美=無個性になってしまったのです。では個性を求め美を求める芸術活動はすっかり矛盾し泥沼に陥ってしまう…?私は考えます。完璧な美(平均)から、その人固有の筆跡がどれだけ「ズレるか」。その絶妙なバランスにこそ、私たちは人間らしい美しさを感じるのでは?と…。​調和: 脳が安心する美しさ。​個性: 脳を刺激する驚き。

この両者がぶつかり合う火花が、作品の魅力になり、私達書き手が求めているものでばないか…。